――――曖昧で確実な君の手を取って。――――


ロイの視線が向くたび、エドワードは溜め息を落とした。
いつものことだが居心地が悪い。同室に居るもう一人が気に食わない。
それでも何とか彼はその場に居続けた。
上司命令ということで、ロイに呼ばれていたから。

「…で、何の用?俺は暇じゃないんだよ」
「分かってるさ」
「だったら、早く用件を言ってくれ」
「会いたかったよ」
「……」

あぁ、この大人は。
即座に苛立ちの宿った瞳で睨み返せば、

「怒るな。本当に会いたかったんだよ」

と己の想いを強調してくる。

「俺は大佐の顔見るたび不愉快になるんだけど」
「…厳しいな」
「そうさせてんのは誰だよ」
「……私かな」

ロイのふざけた態度に余計に腹が立ったようで、
いかにも不機嫌に目をつり上がらせ立ち上がり、任務じゃないなら…と、執務室のドアノブに手をかけるが、
思わぬ言葉で呼び止められた。

「では任務を与えようじゃないか」 という不意の言葉に。

「は?」
「君にやってもらいたいことはたくさんあるよ」
「…だったら、それを先に言えばいいだろ」
「いや…」

口元に苦笑を浮かべ、少し考えるような素振りを見せた後。

「物事には順序があるだろう?特に、その…今日などは」
「大佐に呼び出しくらったら、順序なんて関係なしに任務か厭味だって思うよ」
「ああ、それは…少し残念だ。私はこんなに会いたかったのにね」

すらすらと恥ずかしいことばかり言う口を黙らせるべく、エドワードは更に口調にも怒りを込める。
面倒な任務など早く終わらせてしまいたいし、それならその内容もさっさと言い渡してもらいたい。
考えるほど苛立ちは倍以上になった。

「いい加減にしてくれよ!で、俺は何をすればいいんだ!」

遠慮もなく暴力的に吐き出されたそれを咎めることはなく、
ロイは、ほぼ目線に届く位置で組んでいた両手を解き、言う。

「至って楽な仕事だよ。…まぁ、君の体力なら」
「ふーん…」

ロイは訝しげに声を返すエドワードを確認する。

―――わずかに微笑んだような気がしたのは、どうか見間違いであって欲しい。
瞬間、エドワードの頭にそんな文字列が通り抜けた。


「…さて」

何かの掛け声のように短く呟くと、ロイはデスクから離れ、

「え‥っ」

ノブに触れているエドワードの鋼の手首を掴む。
同時に、エドワードをドアへ貼り付けるように押さえ込み、自分を見上げる彼を見下ろす。

すぐ下に困惑した少年の顔があった。
金の瞳は大きく見開かれ、ひどく怯えた表情をも秘めていた。
だが、すぐに我に返り、少年は口を開く。

「――なっ…何してんだよ!大佐!?」

叫びとも取れる問い掛けだった。
ロイは表情を変えず、楽しげな笑いを含んだ、しかしあくまでも淡々たる声色で、
さも当然のように。

「これから仕事を与えるんだが」

告げられたと同時に、不審の色がはっきりとエドワードから流れ出した。
とたんに、「…痛‥っ」 という鈍い喘ぎが洩れる。ロイが、ぎり、と強く腕を掴み直したからだ。
理由はひとつ。エドワードがとっさに抵抗した所為。

「………」

抵抗が利かないと判断すると、鋼の少年はまた質問を投げかける。

「…何だよ、この体勢は」
「答えるまでもないだろう」
「何で俺がこんな体勢とらされてんだよ!」

再び問う彼に肩をすくめると、普段通りの不適な笑みでこう告げた。

「これが今回の君への任務だ…私の相手をしたまえ」

意味を飲み込みきれないうちに、ロイの頭がゆっくりと下りてきたので、
もう言葉だけでも構わないからと、とにかく何か拒否の意を示さねばと、
出したものは彼らしくもない悲鳴だった。

「―――はぁっ!?…ちょっ…放せよおい!大佐‥大佐あっ!!」

その悲鳴は、ロイには嬌声以外の何にも聞こえなかったらしい。
可笑しそうに目を細めて、本音なのか、からかいなのか、落とした声で低く囁く。

「優しくしてやる代わりに、君は大人しく従う。…等価交換だろう?」
「どこがだよ!」

この男の言うことを肯定する発言は出来ない。
機嫌を最悪まで損ねさせられた人間を無理矢理にでも装おうとしたが、
意外と容易く、そのきっかけは与えられた。

「そう怒るな。…ふむ、こうして見ると、小さいのが際立つな、鋼の」
「うるせぇ!小さい言うな!いい加減にしろコラ!この‥変態!!」
「はっはっはっ」
「笑ってんじゃねー!!」
「ははっ‥いや、君の態度の変わりようが、あまりにも激しいのでね。つい‥」

まだ笑いを堪えきれていないロイだが、エドワードを封じる力はわずかたりとも緩められていない。
ちっ‥と、エドワードは片隅で思う。
だがしかし、こうも思う。
相手(特にこの変態大佐だ)に悪態をつくのは得意じゃないか…錬金術の次の次くらいに。

そうして思惑にニヤとなるのを抑える鋼の錬金術師だが、
本当にこのロイ・マスタングに勝る悪賢さを持ち合わせていると思うそれこそが、
最大の過ちだったに違いない。

「…ちょっとでも妙なことしてみろよ」
「おや、どうなるのかな」
「軍のみんなに…」 言いかけたエドワードの言葉を上手く遮って、「言いふらしてやるとでも言うつもりかね」 そう挿む。
「…分かってるなら、放せよ」
「聞けないな」
「言いふらされても良いのか、あんた!」

弱みを握ったつもりだった、エドワードとしては。
しかし実際は。

「私を上手くかわすことが出来れば、それも叶うだろう。…だが、事と次第によっては…恥ずかしい思いをするのは、誰だろうね?」
「‥何、言ってんだよ‥」

やれやれ、まだ分からないのかい、とエドワードを呆れた眼差しで見つめる。
それでもまだ疑問符を浮かべている彼に、ロイは再び笑いを堪える羽目になる。

「君の抵抗も無駄に終わって、このまま私が君と行為に及んでしまったら、君は周りに何と言うつもりだ?」
「…あっ、てめ‥!そんなの卑怯じゃねーか!!」 気付き、己の浅はかな考えに後悔するが、あまりにも遅い。
「まさか、私に犯されたなどとは言えまい」
「……」

逃げ道がまたひとつ消え去って、反論の文章も頭から奪い取られた。
追い討ちをかけるように、ロイの一言がエドワードの心を抉る。

「やはり私は大人で、君は子供だ。…どれだけ君が背伸びをしていてもね」
「………」
「子供が大人に勝てると思うかい…否だな」
「………俺は、子供じゃない」

ロイが眉を顰めた。この台詞を予想していたらしい。

「なあ…。大佐の言う”子供”は大人に勝てないから…だからあんたは俺を欲望のはけ口にする気なの?」
「まさか」
「だって‥!」

言いながら戸惑いに眩くエドワードの瞳から視線を外さずに、ロイは次の言葉を用意した。
ふと、大人の顔になる。

「私と君の違いを教えてやろうか」
「…ち、違い…?」

突然雰囲気の変わったロイにゾクリとするものを感じ、
思考が凍りついたように止まってしまったエドワードは、
ただロイの言葉を復唱して答えを待つ他なかった。

「私は自分に忠実で、君にはその素直さが欠けているんだよ。分かるかね?」
「…分かんない」

無機質に吐き捨てて目を伏せ、感情の読み取れない視線を避ける。
そんなエドワードの目線を、頬を引き寄せることで自分に戻させ。

「私は君が好きだよ」
「はぁっ!?」 すっとんきょうな声を上げたのは当然の反応だろう。
「君に嘘を吐いても仕方がないだろう」
「頭おかしいんじゃないの。俺、男なんだけど」
「さぁ。相手が君だからじゃないか。そうでなければ女性の方が良いに決まっている」
「じゃあ女にしとけよ!あんたと付き合いたい女なんていっぱい居るだろ」
「私は君がいいんだよ。女性‥などと誰かも定まらない表現ではなく‥鋼の、君がいいんだ」
「何だよそれ!訳分かんねえ!」
「愛、というんだよ。知らないわけではあるまい」
「分かんないもんは分かんないんだよ!」

怒鳴った瞬間、ロイのエドワードを見る目の色が冷たくなったことに気が付いて、息が詰まった。

「分からない、とは、それこそどういうことだ?」 冗談気のない表情。
「‥は?」
「私は君を愛していると言える。嘘偽りなくね。だが君は…拒みきることもせず、かといって自ら受け入れるわけでもない。…まるで私の行動を待っているようだな」
「なっ‥勝手なこと言うなよ!」
「勝手?なら君自身の反応を見せてみなさい」
「…………」

急に答えを求めらても。そう思った。
ロイの都合で愛などという慣れないものを差し出され、
それが具体的に何であるのかさえも理解できないまま、
エドワードなりに変形させ与え返せと要求されることの不安を、
ロイは考えてくれているのだろうか。

そもそも彼は自分の何を愛したというのか。
彼からすれば子供で、決して好ましい態度も取った覚えはない上に、右手左足は見事に機械鎧。
そして、男。ろくに色事の経験もない男なのに、彼の何に答えられるというのか。
自分はきっと彼の癒しにも慰めにもなってやることは出来ないのに。

様々な苦さに思考をとらわれ、返答できないでいると、
少し前より潜められた声が降ってきた。

「私のことを、人間として好きか嫌いかと訊いているんだよ」
「…そんなこと言われても…」

ロイがまた溜め息をついた。
さっきまでは自分が吐き出していたものなのに。
そう思うと、どこか悔しい感情が押し寄せる。
しかしエドワードに適当な答えはまだ浮かばなかった。
好き?嫌い?
好きでもなければ嫌いでもない。そういう位置にロイは居る。
二者択一をせまられたところで、ロイの希望に沿った答えなど出ない。
そもそも好き嫌いだけが愛を定義する概念なのか。あまりにも薄っぺらではないだろうか。
好き?嫌い? 好き?嫌い?
選ぶことさえ、出来ないループ。


「鋼の」 まるで駄々を捏ねる子を宥めるような、甘さと優しさを含んだ声。
「‥なに」
「あまりに曖昧だと、私の良いように解釈してしまうよ」

今度は、悲しそうな声。
何だか、逆に “嫌なら完全に拒否してしまってくれ” とお願いされているようで。
それが少し引っ掛かって、ようやく問いを発する。

「俺が、本気で大佐なんて大嫌いって言ったら…その時はどうすんの?」

数拍分、間が空いた。
しんと涼しい空気が心の中をスカスカ抜けていく、そんなおかしな感覚。
何度かその感覚に襲われた後、「そうだな…」というロイの声がした。

「君が、私が醒めるような嫌い方をしてくれたなら…潔く」
「何それ」

思っていたよりもまともなことを言った。
言ったが、この大人が醒めるほどの振り文句をエドワードが捻り出せるかといえば、ノーである。

「……」

嵌められたような気がした。
ロイの張った色付きの罠にかかった気がして、
あぁこれが大人の駆け引きとかいうやつなのかな…などと、ぼんやり考えた。

その時、もう逃げ出せないんだろうな、という不確かでしかし確実な未来が、エドワードに焼きついていた。
何故か逃げる気はしなかった。
ロイが好きだとか嫌いだとかいう選択はまだしていなかったが、
選択したところで、きっとロイには適わないし、
このまま悪態もつき続けるのだろうし、ロイも厭味ばかり言うのだろうし、
エドワードはエドワードで、ロイもロイであり続けるのだろうし、
これも何故だろう、このまま行った先を、少しだけ見てみたい。
今は見るたび不愉快な上司の面も、その先では愛しい顔になっているかも知れない。
それはそれで得だと言えるのかも。
自分らしくもない望みだと、エドワードは苦しそうに自嘲した。

その不安定な笑みに、ロイが、

「どうやら私を厳しく蹴落としてはくれないようだね」

と、苦笑混じりに言った。
エドワードは少し考えて、困った表情を貼り付けて訂正する。

「……逆だろ、ありがとうって言ってよ。大佐の‥巣にかかってやったんだから」
「何だ。もう少し優しい言葉をくれてもいいだろう?」
「…俺はまだ、大佐の言う愛とか好きがよく分かんないから無理だ。大佐が好きなのかどうかも分かんない」
「そんなに無責任な判断でいいのか?」
「だって、大佐ってしつこそうだし。…社交辞令ってことで。部下が上司の機嫌取るのは当たり前だろ」
「…あんなに熱く君を口説いたのは何だったんだい」
「知るかよ」

エドワードがそっけなく言葉を放り投げる。
それを仕方なさそうに拾い集めるのがロイで、代わりに重い台詞を刻み付けるのもまた、ロイで。

「まぁいいさ」
「何がだよ、変態大佐」 ロイに悪態をつく癖は直らないらしい。「君ね‥」と呟くロイは気を取り直し、
「…何も知らない分、君は真っ白なのだから、私は君に色々なことを教え込む楽しみが出来たね」 言って、ニコリと微笑む。
「…げー…最低…」
「その少々歪んだ性格も、ちゃんと私好みに正してやるから、楽しみにしていたまえよ‥鋼の」
「やっぱあんた変態だ!何かすっげー後悔したかも俺っ!!」

ロイの笑顔の真意が怖いだとか気持ち悪いだとか。
しばらく散々な非難を浴びせたにもかかわらず、ロイはそれさえも愉快気に聞き流してしまっていた。
仕舞いには、いまだに身動きさえ儘ならない状態にあるエドワードをすっぽりと抱きすくめ、
放せ馬鹿野郎と叫ぶ悪い口は塞いでしまおうか‥と脅し、
自分の余裕なるものをエドワードに見せ付けた。

「あーもう…絶対体もたねえ…あんた、俺のこと言う前にその性癖直せよ‥」
「わがままだね…」
「あと、慎み持てよな‥大人なんだから」
「おやおや、君からそんな良識ある発言が出るとは思わなかった」
「ほんっと最低…上司失格」
「そう言うなら、プライベートでは嫌というほど有能に振舞ってやろうか」
「無理だな無能」
「言うじゃないか…」

ロイが再びあの意味あり気な笑顔を返すと、エドワードは、しまった、と慌てて弁解に努める。
それが面白くて眺めていると、「てめー」と震えた声が飛んでくる。

「何だね」

まだ充分に笑いが堪えきれていないうちに答えた。
その後に返ってきた言葉は、「もう帰る!アル待ってるし」。
それで、なんとなく「どこでだ」と訊いてみる。

「図書館」
「ほう。気の利く弟君だな」
「うっさいな!アルに変なこと言うんじゃねーぞ!絶対だぞ!」 エドワードの顔が赤い。
「言わないさ」 ロイは恐ろしいほど冷静だというのに、この差は。

弟に知られたくないと思うのも当然か。
確かに、とロイは頷く。
エドワードの顔からは、まだ赤みがひいていなかった。



―――今日は長い間引き留めてしまったね、気を付けて帰りなさい。
ずっと掴んでいた腕を解放し、先程までの意地の悪い態度は何かと思わせるくらいの穏やかな表情を浮かべ、

「また寄りたまえ。待っているから」 次の約束を取り付けておく。
するとエドワードも気が付いたのか、あぁあ、と表情を歪めた。


「そこらの女みたいに楽できるなんて思うなよ。じゃーな」


「………」

執務室のドアを閉める直前に、置き土産のようにエドワードが一言ぽんと置いていったそれは、
この日のロイを感服させるには充分過ぎた。

「まったく‥君という子は…」

ドアの前で笑い出したはいいが、その笑いが止まらない。
ロイの脳裏では、整った顔立ちの生意気なエドワードが、彼を睨んでいる。
そのふくれた表情がまた可笑しくて、
そして今日、抑えられなかった(半ば計算された)衝動の結果が、ようやく自分の中に溶け込んだのだということが嬉しくて。




その日、ロイの口元は緩んだままで、
部下に「何か良いことでもあったんですか?」と何度も訊ねられた。
「いいや、何も」 とあからさまな嘘を吐く彼に部下たちは顔を見合わせた。




「兄さん、何かあったの?なーんか今日はぎこちなくない?」

エドワードもエドワードで、アルフォンスに “いつもの兄さんじゃない” と言われ続け、
そしてやはり彼も

「何にもないって。アルこそどうしたんだよ」

と綺麗にごまかして見せたが、
その弟は、どうも腑に落ちないといった様子で何度も鎧の首をかしげた。




その日、妙な形で結ばれた(のだろうか)ふたりの国家錬金術師は、
次に会う日のことをリアルにシュミレーションしては納得したり、勘弁してくれと慌てたり。
おかげで彼らの近辺に居た者たちまで、要らぬ想像力を働かせることとなったが、
そんなことは当人らの知ったことではなかった。


麻薬にも似た毒さえも秘めた甘さの中に放り込まれて、
または自ら飛び込んで、きっとお互いの未来が、少し変わった。



――― END ―――










キリカリスさんからの素敵な贈り物、その1。
等価交換でいただいた品です。 早くしろよ〜と催促しまくって奪い取ったようなもの…(ヲィ
いや、ちゃんとした等価交換成立していたハズです よね?(ぇ